いつかその手を取る日まで・4





風の峡谷・カザテガで民家といえば、麻で織られた帆布を用いたテントを指す。
峡谷を吹き抜ける強い風にはためきながらも、それは決して飛ばされることは無い。
だが、峡谷の北からは盗賊団、南側からはジェム教団の侵攻に遭い、
民家の何軒かは潰され、あるいは灰と化してしまった。

カザテガ唯一の宿である「ヤル」の宿屋。
食堂と受付を兼ねた巨大なテントを中央に配置し、
その周囲を宿泊部屋――小さなテントが取り囲んでいる。
普段は来客が少なく静かな宿屋が、今夜はやけに騒々しい。
戦いで傷ついた者達の手当てのため、主人のヤルが宿泊部屋のほとんどを提供したからだ。
そして、ヤル本人もまた、薬草の手配や食料の調達に大わらわである。



宿屋で給仕をしているファードの女性が、蘆薈の表皮を剥いてナイフで葉肉を削ぎ落とす傍らで、
セレナが息を詰めて、俯せになったフィーの背中に葉肉を貼り付けていく。
一枚一枚、ひんやりとした葉肉が増える度に痛みが走り、フィーは息を詰めて枕をきつく抱くことでやり過ごした。
「可哀想にねぇ…。こんなに綺麗な肌なのに。」
給仕の女性が、愁いを帯びた表情で呟いた。
あまり日焼けしていない、肌理の細かい背中に無惨に残った傷は、徐々に蘆薈の葉肉で隠れてゆく。
「本当、ひどいわっ。女の子の身体に傷をつけるなんて!!
それに、髪は女の命なのに…あんまりだわ!!」
セレナも女性に同調するが、こちらは頬を紅潮させ、怒りを顕わにしている。
瞳にはうっすらと涙が浮かんだが、セレナはさっとハンカチーフで目元を拭い、
再び蘆薈の葉肉と格闘を始めた。
肩に届くくらいの長さに切り揃えられていたフィーの黄櫨色の髪は、
毛先が火蜥蜴の炎で焼け焦げてしまったため、手当ての前にバッサリと切り落とされた。
傍から見て、線の細い少年と間違う者もいるだろう。
元より、やや幼さの残る顔立ちではあったが、短くなった髪が一層あどけなさを強調させてしまっている。
「……いいよ、もう。傷は、いつか消えるんだから。
髪だって、また伸ばせば良いんだし。」
枕から顔を上げて見せる微笑みは、痛みを堪えているためか、僅かに強張っている。
その表情に、セレナと給仕の女性は顔を見合わせた。
「…でもぉ……。」
「大丈夫。今はちょっとだけ痛いけど、こうしてハーネラさんとセレナが
手当てしてくれてるんだし。私は平気だから。」
キッパリと言われてしまっては、セレナは口を噤むしかない。
「さあさ、終わったよ。ちょっと身体を起こしてくれるかい?」
ナイフを置いて、給仕の女性――ハーネラが薄地の綿織り布を指し示す。
蘆薈の葉肉を固定させるため、包帯として使うらしい。
フィーは両手に力を入れて、葉肉を落とさないよう注意深く上体を起こした。
ハーネラは、労るようにフィーの顔を覗き込む。
「辛いだろうけど、あともうちょっとだからね。我慢するんだよ。」
「はい。」
セレナの手を借りて、ハーネラは慎重に、フィーの上半身に綿織り布を巻き付けていった。


(―――でも…。)
素肌に布がしゅるしゅると巻かれる様をぼんやりと眺めながら、
しかしフィーの脳裏に浮かんだのは、涙を堪える少年の姿だった。



自分がセプターとしての力を得た時、神父ローウェンや義兄アーヴァインを大層驚かせてしまったことは、
今でもよく覚えている。
そして、言いつけを破ってカルドセプトに触れたため、礼拝堂に正座させられ、
ローウェンに叱られたことも。
だが、神がもたらしたと言い伝えられているカルドセプトを駆使できることで、
辛い思いをしたことはこれまで一度もなかった。


だが―――。

 セプターの力に目覚めたことで、辛い思いを抱いている女性を知っている。
 柔らかそうな深緋の髪と憂いを秘めた碧の瞳を持つ女性。
 確か、自分より2つくらい年上のはずだ。
 彼女はあの時、「もう少し頑張ってみる。」と確かに言った。
 今は、どうしているだろう。
 彼女の抱える痛みが、今は少しでも和らいだだろうか。



オファイスに芽生えた『セプターの力』は、彼に何をもたらすのか。
カルドセプトを悪事に使う者を目の当たりにして、彼は何を思ったのか。
あの、深緋の髪の女性のように、心に傷を抱えたまま生きていくことになるのだろうか。

(こんな時は、どうすればいいんだろう……。)
苦い思いが、フィーの胸を過ぎった。



一方。
フィーの治療をするから、と部屋を追い出された男達は…というと。

「本当に、すまない。」
「……ごめんなさい。」
「いい加減、顔を上げてくだされ。」
悔しげに表情を歪めて頭を下げるファードの戦士と、きつく目を閉じて俯く子供。
そして、彼らの目の前で困っているアーティファクトと、
少し離れた位置で宿泊部屋を心配そうに見つめる、大剣を背負った少年。
「だが、しかし…。」
「仮にお主達が声をかけなかったとしても、フィー殿は力を貸したであろう。
無理に引き留めたとしても、振り払ってまで飛び出してゆく…。
そういうお方ですぞ、フィー殿は。」
ゴリガンはフィーが治療を受けている部屋に視線を移した。
目の前の青年に悟られぬよう、そっと息をつきながら。


想定外の出来事ではある。
聖地プロムスデルまであと少し…というところでのフィーの負傷は確かに痛い。
この隙に、邪神ジェミナイの前身といわれている、邪悪な野望を抱くセプターが何をしでかすかわからない。
だが、あそこでファード族に加勢しなければ、カザテガはより大きな被害に遭っただろうし、
覇者たる資格を有するセプターが、困っている者に力を貸すのは当然の行為であると、
ゴリガンは考えているからだ。


盗賊団とジェム教団の襲来から、もうずいぶんと時間が経ったはずだが、
夜は依然として明けず、月の光が煌々と峡谷を照らしている。
――もしかして、このまま永遠に夜は明けないのだろうか――。
そんな有り得ないことを、男達が銘々考え始めた頃。

「あんた達ー、治療終わったよ!」
部屋の入り口からハーネラが顔を出して、大声で手を振っている。
レオは、弾かれたように部屋に向かって走り出した。
ゴリガンも後に続く。
やや遅れて部屋に向かいかけたワールウィンは、俯いたままの少年に向き直る。
「オファイス、我々も行くぞ。」
「で、でも…。」
躊躇うオファイスの肩をポン、と叩いてワールウィンが進むよう促す。
不安げに見上げるオファイスに、無言で頷いて。
しばらくは視線を右へ左へと彷徨わせたオファイスであったが、
ようやく覚悟を決めたのか、ぐっと歯を食いしばって頷き返し、ゆっくりと歩みを進めた。


「みんな、ごめんね。心配かけちゃって。」


部屋に駆け込む男達を、少女はいつもどおりの笑顔で迎えた。

上半身に巻かれた薄地の綿織り布を覆うように、フィーはだぼだぼの生成り色のシャツを身につけている。
急遽ハーネラが用意した物だが、「あらあら、ちょっと大きすぎたかしらねぇ?」と苦笑いするくらい、
見事にサイズが合っていない。



「フィー、あんなことに巻き込んでしまって、本当にすまない。」
「お姉ちゃん、ごめんなさいっ!」
ファードの青年と子供は、部屋に入るなり揃って深々と頭を下げた。
ゴリガンとレオは、すっかり短くなったフィーの髪に愕然としている。
「ちょ、…ちょっと待ってください。
そんなことしないでくださいよ、ワールウィンさん。
オファイスも、顔を上げて。ねっ?」
明るいフィーの声、しかしワールウィンもオファイスも一向に顔を上げようとしない。
「……ぬう。そういうことされると、困ります。
だって、これは単に私がドジ踏んだ結果なんですから。」
そう言ってとんとん、と布でぐるぐる巻きにされた自分の項を指し示す。
「あの場は、自分がもうちょっと機転を利かせていれば、
状況はもうちょっと変わっていたと思うんですよ。
まだまだ詰めが甘いですよね、私は。」
言葉に反して自嘲の欠片のない、いっそ清々しいとさえ言える笑顔を見せる。
「いや、そんなことは…。」
「それに、さっきも言ったじゃないですか、困った時はお互い様だって。
だから…お願いですから、もう顔を上げてください。
――これ以上謝ったりなんかしたら、怒りますよ?」
渋るワールウィンの言葉を遮り、フィーはキッパリと言い放つ。
これには、ワールウィンも折れるしかない。
「……わかった。ありがとう、フィー。」
「お姉ちゃん…。」
ようやく、ワールウィンとオファイスは複雑な表情を張り付かせたまま顔を上げた。
一方のフィーは、「はい、もうこの話は終わり!」などと言いながらにこにこと笑っている。
「…ま、まぁ、思ったより元気そうで良かったですな。
しばらくは無理をせず、じっくりと休んでくだされ。」
「俺達は、一眠りしたらファードの人達を手伝うから、
フィーはゆっくりしていてくれ。」
短くなったフィーの髪にショックを受けて固まっていたゴリガンとレオは、
フィーの明るい声にようやく安堵したようだ。
「うん…ありがとう。ゴリガン、レオ。」
「さあさあ、もうじき夜が明けるよ。
今日はやることがいっぱいあるんだから、今はぐっすりと眠っておしまいよ。」
ハーネラの声に呼応するように、鳥の鳴き声が聞こえ始めた。
男達が次々と部屋を出て行く中、オファイスだけがぽつんと立ち竦んでいる。
「どうしたの、オファイス?」
「…お姉ちゃん、あのね…。
……ううん、やっぱり後で話すよ。
おやすみなさい、お姉ちゃん。」
「うん、おやすみなさい、オファイス。」
手を振って部屋を出て行く少年を、フィーは笑顔で見送った。
「あの子、本当にフィーに懐いているわね。」
「……そう、かな?」
「そうよ。何だか姉弟みたい。」
くすり…と笑みを零すセレナ。
「じゃあ、あたしも行くよ。
何かあったら受付に声をかけておくれ。」
「はーい、わかりました。おやすみなさい。」
「ありがとうございます、おやすみなさいハーネラさん。」
セレナの手を借りて、フィーはベッドに俯せになる。

静かになった部屋に、程なく、セレナの健やかな寝息が聞こえ始めた。

(――姉弟、か…。)

次第に鈍くなった痛みを紛らすように枕を抱えて瞳を閉じ、
緩やかに訪れる眠気に身を任せながら、
フィーはぼんやりとセレナの言葉を思い浮かべた。


間もなく、眠りにつく……はずなのだが。




続く。


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