いつかその手を取る日まで・5
鳥の囀りが、長い長い夜の終わりを告げる。
空が白むのに従って、闇に包まれた室内にわずかながら光が差し始める。
睡魔が背中の痛みに勝り、ようやくフィーがとろとろと微睡み始めた時。
「―――なぁんだ、つまんない。
もっと楽しませてくれるんじゃないかって期待したのに。」
耳…というより、脳に直接響く声。
鈴を転がすような、しかし、どこか冷たさを含む声に、睡魔が吹き飛んだ。
反射的に飛び起きようとして背中に痛みが走り、息が詰まった。
「あらあら、無理しちゃダメじゃない。
もう少し自分の身体は大事にした方が良いわよ?」
くすくす…と笑う声は、フィーやセレナと同じ年頃であろうか。
労るような言葉に反して、声は残忍さを秘めて刺々しい。
戸口に立つ人物を一目確かめようと顔を上げるが、
(―――見てはいけない)
全身を駆けめぐる戦慄に、フィーはぎり…と歯を食いしばる。
それでも、どうにか視線だけ戸口に向けると、薄闇に紛れたその姿は深い闇色の影にしか見えず、
どうしても輪郭を確認することはできなかった。
少し離れたベッドで眠るセレナは、この異変に気付かないのか、
すやすやと規則正しい寝息をたてている。
(これは…夢?)
いっそ、夢であれば。
朝になって目が覚めてしまえば、忘れることができる。
食事時の笑い話にでもして、その後は頭の片隅から自然に消えて無くなるのを待つだけのこと。
――だが。
それなら、この禍々しい空気は一体何なのか。
どうしてこうも息苦しく感じるのか。
「それにしても、あなたもバカよねぇ。
あんな子供放っておけば、痛い思いしなくてすんだのに。」
ふん、と影は鼻で笑う。
――何故、知っているのか。自分がオファイスを助けたことを。
そんな疑問が生じたが、自分の行為を真っ向から否定されたことにフィーはカチンときた。
重苦しい空気に気圧されぬよう、ゆっくりと息を吐き出す。
「そんなこと、あなたに言われる筋合いはない。
確かに…要領は悪かったと思うけど、あの子を助けたことは後悔していない。」
「……ふうん、そう?」
返ってきたのは、いささか拍子抜けした声。
「まぁ、ちょっとした余興のつもりだったんだけど。
元々あんな連中に期待なんかしていなかったから、別にいいわ。
それに、ここであなたが負けるようじゃ、私の楽しみがなくなっちゃうしね。」
くすくす…と、影はふたたび楽しそうに笑う。
「…本当は、もっと色々話したいことがあるんだけど、
『外』は私の魔力を著しく消費させるみたいだから、残念だけどもう帰るわ。
だから、早く私のところまで来てね。いい加減、待ちくたびれてるんだから。」
不穏な空気を孕んで、影はそろりとフィーに近づいてくる。
「なっ…!」
全く予想していなかった言葉に、フィーは身を強張らせる。
何を言っているのだ、この少女は?
突然現れたと思ったら、自分を待っているなどと言い出す。
この子は……まさか。
「あなた…誰?
――私を、知っているの?」
がたがたと震えだす我が身を抱きしめる代わりに、枕を掴む手に力を込める。
既に答えはフィーの中にあった。
旅の目的でありながら、反面、会ってはいけないと畏れるその人物の名前を。
だが…、心の奥では頑なにその答えを拒み続けている。
「…はぁ? 何バカなこと言ってるの?
知ってるに決まっているじゃない。
だって私は……。」
蔑むような口調。
しかし、影はふと動きを止めて、
「――まあいいわ。あなただってもうわかっているんでしょ?
今は言わないでおいてあげる。」
そんなことを口にするのだった。
「じゃあね。あんまり私を待たせないでよね。」
気配が、一瞬にして消え去った。
影は――声の主は、もういない。
室内を支配していた重圧は薄れ、代わりに、朝独特の清々しい空気が満たされ始めた。
「……はあっ。」
フィーは詰めていた息を一気に吐き出した。
汗が額から頬を伝って流れ落ちる。
湧き上がる不快感を堪えながら、枕に深々と顔を埋めた。
一方、セレナは未だ心地良い夢の中を漂っているらしい。
時折むにゃむにゃ…と言葉になっていない寝言を呟きながら、寝返りを打っている。
その様子を視界に収め、僅かにフィーの口許が綻んだ。
今までの異変をセレナに気付かれなかったことに、心から安堵して。
(…さっきのは、あの子は、やはり…。)
その後、ハーネラが客室を訪れるまで、フィーはまんじりともできなかった。
カザテガ復興の合間を縫って、レオ・セレナ・ゴリガン、そしてオファイスとワールウィンまでもが
入れ替わり立ち替わりフィーの見舞いにやって来る。
ハーネラが「あんた達、いい加減にしな!」と雷を落としても、彼らの足は途絶えることはなかった。
そして、太陽が西に傾きかけた頃。
今日何度目かの少年の見舞を、フィーは笑顔で迎え入れた。
未明の出来事は一切誰にも口外せず、また、今はその事を考えないよう努めた。
「お姉ちゃん、はいっ!」
「こ…これは?」
籠いっぱいに、小粒で真っ赤な果実が盛られている。
それを目の前にずい…と差し出され、フィーは目をぱちくりとさせた。
「ホーンクルの実っていうんだよ。最初は酸っぱいけど、食べてるうちに甘くなるんだ。
これをいっぱい食べると、元気が出るんだよ。
ねえねえお姉ちゃん、一緒に食べようよ!!」
らんらんと瞳を輝かせながら、側にある椅子にちょこんと腰を掛ける。
傍らでは、ハーネラが肩を震わせて笑いを堪えている。
「オファイス。あんたそれ、二人分にしては多過ぎやしないかい?」
「え〜……そうかなぁ?
いっぱい食べれば、お姉ちゃん早く元気になると思ったから…。」
「わかってるわかってる。けど、モノには限度があるんだよ。
そうだねぇ…、あんた達二人分なら…これくらいかね?」
ハーネラはそう言って、籠から半分近くホーンクルの実を取り上げた。
「むぅ〜…。」
「これは、明日またフィーお姉ちゃんと食べればいいだろう?」
不服そうなオファイスを笑顔で宥めながら、ハーネラはフィーが上体を起こすのに手を貸した。
「……うん。わかったよ。」
「じゃ、あたしゃ他の部屋を見てくるから、それまで頼んだよオファイス。」
「うん!任せておいてよ!。」
「すみません、ハーネラさん。」
「フィーちゃん、オファイスが悪さしたら、ガツンと言ってやるんだよ。」
「僕、悪さなんかしないよ…。」
むくれるオファイスにハーネラが破顔一笑し、手を振って部屋を後にした。
その姿を見送ってから、オファイスがホーンクルの実を一粒、フィーに差し出した。
「最初はすごーく酸っぱいけど、ガマンしてね。」
「…うん、ありがとう。」
赤々とした薄皮に包まれた果実は爽やかな香りを放ち、そっと摘むとぷるぷるとして柔らかい。
一粒口にすると、たちまち鋭い酸味が広がった。
「…うわっ。」
「大丈夫だよ、最初だけだから。」
微かに顔をしかめ口許を押さえるフィーを、にこにこと楽しそうに見つめるオファイス。
少年の言葉どおり、次第に蕩けるような甘味が酸味を凌駕していく。
「……おいしい。」
ぽつりと呟いた言葉は、しっかり少年の耳に届いた。
「良かった〜。いっぱいあるから、好きなだけ食べてね。」
そう言って、少年は2・3個まとめて果実を口の中へ放り込む。
しばらくは二人とも言葉無く、目の前の果実に没頭した。
「…あのね、……お姉ちゃん。」
日没に従い、室内もまた薄暗くなり始めた頃。
足をぶらぶらと揺らしながら、しばらく口を閉ざしていた少年が、
ようやくぽつぽつと言葉を紡いだ。
――いよいよ、その話をする時が来たのか。
フィーはやや緊張した面持ちで、少年の言葉を待った。
「もし…お姉ちゃんが許してくれるなら、…僕、やっぱりセプターになりたい。」
「どうして、そんな風に言うの?」
「…僕が約束を破ったから、お姉ちゃんはこんなに傷ついちゃったんだ。
それだけは、お姉ちゃんが何て言ってくれたって変わらないんだ…。」
「オファイス……。」
「――怖かったよ、僕。
あんなおっかないおじちゃん達がカードを使って、みんなをひどい目に遭わせて。
お姉ちゃんが言ってた『怖い』ってこと、…僕、ちょっとだけわかった。」
フィーは言葉無く、俯いたままの少年を見つめる。
少年が自分で出した「答え」をしっかりと受け止められるように。
「僕…それでも、セプターになりたい。
僕はあんなおじちゃん達じゃなくて、お姉ちゃんやワール兄ちゃんみたいになりたいんだ。
ああいうおっかない人達から大事なものを守れるように。
できれば、今日みたいに…みんなの力になれるようなセプターになりたいよ。
だから、…僕、セプターになって良い?」
「それが、オファイスの答え…なんだね?」
「――うん。」
伏せていた顔をようやく上げ、真っ正面から見つめてくる少年の瞳は、
迷いのない、凛とした光が宿っていた。
「…わかった。
それなら、ワールウィンさん達の言うことをよく聞いて、頑張るんだよ。」
ふわりと微笑み、少年の頭をそっと撫でる。
「本当!?…本当に良いの、お姉ちゃん?」
「うん。オファイスが決めたことなら、私が反対する理由はないよ。」
最初はきょとんと見上げてくるだけだった少年の顔が、ぱあっと輝いた。
「ありがとう…お姉ちゃん、ありがとう!!」
飛びつかんばかりに身を乗り出して笑う少年を、フィーは穏やかな笑みで見守っている。
ふと、深緋の髪と碧の瞳を持つ女性の顔が頭を過ぎった。
(きっと、これで…いいんですよね?)
今、どこにいるかわからない彼女が抱える心の痛み。
どうかそれが、少しでも和らぎますように…と、フィーは密かに願った。
ところどころ薄雲がかかっているが、清々しい青空が広がっている。
カザテガ峡谷の入り口にあたる、細い道。
普段は人通りの少ないひっそりとした道だが、ワールウィンとオファイスを始め、
ハーネラやカザテガの青年達までもがフィー達の見送りに立ち会い、大層賑やかになっている。
「いいかい、くれぐれもムチャしちゃいけないよ。」
ハーネラが、緑色のゼリーらしきもので満たされた瓶をフィーに手渡す。
その正体は蘆薈の葉肉を磨り潰した塗布剤であった。
「ありがとうございます、ハーネラさん。」
傷の手当てや衣食に至るまで、何かと世話を焼いてくれたファードの女性。
焼け焦げてしまったフィーの旅服を新調してくれたのが、実は彼女だった。
フィーは晴れやかな笑顔をハーネラに向け、瓶を受け取った。
二人の側に、オファイスがおずおずと近寄ってくる。
「どうしたの、オファイス?」
初めて少年の姿を見た時みたいだ、と、ふと笑みを零す。
フィーは少年の目線に合わせて、少し屈んだ。
「うん…あのね。
お姉ちゃんの旅が終わったら、またここに来て僕にカードの使い方を教えてくれる?」
「――え?」
「その時までに僕がどれくらいカードを使えるようになるか、見て欲しいんだよ。」
少年の真摯な姿に、フィーはゆっくりと頷いてみせた。
「……わかった。お姉ちゃん、オファイスに会いに来るよ。」
「本当!?」
「うん、本当。」
「本当だね!?約束だよっ!」
「うん、……必ず。
だから、ちゃんとワールウィンさん達の言うことを聞くんだよ?」
「わかったよ、今度こそ約束破らないから!」
「…もう気が済んだか、オファイス?」
背後から少年の肩を軽く叩いて、ワールウィンが話に割って入った。
「あ、兄ちゃん!」
「ワールウィンさん。いろいろと、ありがとうございました。」
「いや。力を貸してくれて、我々の方こそ感謝している。」
姿勢を正し、ファードの青年に深々と頭を下げると、青年もまた少女に最敬礼を返した。
「餞別…というわけではないが、良かったらこれを受け取ってくれないか。」
「これって…カード、ですよね?」
差し出されたのは、一枚の石版。
そこには、さながら天使か女神かという程の美しい女性――聖域の守護者の姿が。
「もしかしてこのカードは…?」
「そうだ、最近この地で発見されたカードなのだが、我々には使いこなせないものだ。
皆で話し合って、君に託すのが一番相応しいと決めたのだが、まさか盗賊などに狙われるとは…。」
「でも、良いんですか?私が受け取ってしまって。」
「君だからこそ、受け取って欲しい。
こんな形ではあるが、せめて君の役に立てれば……。」
「そんなこと……。」
狼狽えるフィーであったが、周囲でにこやかに笑うファードの青年達、また側で控えているゴリガンは力強く頷き、
そして一向に退く気配のない青年を前にして、とうとう腹を据えた。
「――それでは、皆さんの力をお借りします。」
ようやく、ワールウィンの手から”サンクタムガード”のカルドセプトを受け取った。
青年達の間から、わっと歓声が上がった。
「我が友よ、道中の無事を祈っている。」
「ありがとうございます。ワールウィンさん達もお元気で。」
がっちりと握手を交わし、フィーは青年の許を離れた。
ありがとうだの頑張れよ、などといった声に押され、仲間達と細道を上り始める。
「お姉ちゃん、きっと…きっとまた会おうねー!!」
少年の声に一度だけ振り返り、フィーは緩やかに手を振った。
「やっぱりフィーとあの子って、本当の姉弟みたいだわ。」
細道を上りきり、ワールウィンやオファイス達の姿が見えなくなってから、
セレナはそんなことを言うのだった。
「…まあ、確かにそう見えなくはない…が。」
煮え切らない表情で呟く銀髪の少年に、セレナは食ってかかった。
「何言ってるのよ、レオ。どう見たって仲良し姉弟じゃない!」
「いや…そう力強く言われてもな…。」
「まあまあ、二人ともケンカは止めないか。」
最早日課と化してしまったレオとセレナの口論に、ゴリガンが待ったをかける。
「あの子は…。」
ぽつんと呟いた声に、一同が振り返った。
どこか寂しそうな声音だったが、声の主は意外にもにこやかに笑っている。
「――あの子は、私と同じ。
だから、いろいろと放っておけなかったんだ。」
何が『同じ』なのかは、とうとうフィーの口から語られなかったが、
にこにこと笑みを湛えている少女に安堵したのか、ゴリガンは気を取り直して姿勢を正し、フィーに向き直った。
「さて、いよいよ交易都市クアンゼを経て、プロムスデルへ向かいますぞ。」
「…うん。」
「そうよね〜、よーし燃えてきたわー!!」
「何でお前が燃えるんだよ…。」
仲間達の声に笑顔で応えながら、しかしフィーは湧き上がる不安を押さえ込むのに必死だった。
(……やめよう。考え込むなんて、私らしくない。
――そう。この旅が終わったら、またカザテガに来てワールウィンさんにカードのお礼を言うんだ。
それから、オファイスのカード捌きを見せてもらって…。)
先のことを考えようとすればする程、あの時の『影のような存在』が、
愛らしい反面底知れぬ恐ろしさを秘めた声が、どうしても頭から離れない。
(私は…本当に、帰ってこられるのかな…?)
仲間達の歩調に合わせるように、フィーは足を速める。
挫けそうになる自分を、胸の内で叱責しながら。
End